《松本零士特別賞》テーマC 「いじめ・自殺」の防止方法
ポジショニングシートの提案 高山 優(41歳・在宅ワーク)
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はじめに
小学校6年生から始まった集団でのいじめ。それは収まることなく中学へともつれ込み、だんだんと心を蝕まれた娘はついに児童精神科に入院することになった。7カ月の入院生活を経て、ようやく戻ってきた彼女の日常に「学校」は存在しない。未だに顔を出す恐怖の記憶と闘いながら、遠く離れたフリースクールに体調を見ながら通う日々。集団を避け、進学に悩む彼女のすぐそばでは当たり前のように通学する同級生たちが、ゲラゲラと笑いながら今日も我が家の前を通り過ぎていく―。
こんな話を聞いたら可哀想だと思う人もいるでしょう。いじめをした相手に憤る人も、学校や親の対応を疑問視する人もいるかもしれません。しかしこのような体験談は世の中には溢れるほどあり、その一つに遭遇した私たちに言えることは、いくら泣いても恨んでも、そして誰かを責め立てても、変わることは何もないということです。
私は娘の経験を通じて、良くも悪くも「いじめ」という分野に強い興味を抱くようになりました。その中で感じたことや得られた知恵、見えた現実、そして考えた防止策を、少し冷静な立場に立ってお伝えしたいと思います。
1.ジャングルの沼でワニと対峙する
ジャングルには、さまざまな動物たちが暮らしています。可愛らしくさえずる鳥、コソコソと地べたを這いずるヘビ、軽やかに木々を飛び回るサル、そして沼には獰猛なワニもいます。
たとえば、水を求めてやってきたサルが沼に足を踏み入れたとき、難なく喉を潤し帰って行くときもあれば、運悪くワニに襲われてしまうこともあるでしょう。しかしこれは動物たちの日常であり、唯一の水場である沼は動物たちにとって必要不可欠なものです。たとえ襲われる危険性があっても、ジャングルで生きる彼らには「近づかない」という選択肢はありません。
学校にも色々な性格をもった子どもたちが集まっています。もちろんジャングルとは異なりますが、多くの子どもが一カ所に集められ、決められた時間を共に過ごすという意味では、共通しているといえるでしょう。
そんな学校生活の中でも些細な違いやきっかけによって、ある日突然いじめの沼は出来上がっていきます。その沼に住み着いてしまう子、引き込まれる子、水を飲んで戻れる子、襲われてしまう子、それぞれ出てくるでしょう。そこでもしわが子が「襲われてしまう子」になってしまったら、親は沼の中で笑って見ているいじめっ子たちを強く非難し、謝罪と反省を求めるでしょう。しかしその声は、沼の中にいる彼らの胸に果たして届くものなのでしょうか。
いじめが起きたと推察されるとき、一般的には先生が間に入り事実確認を行います。その結果事実と判明すれば、口頭で注意をする、謝罪をさせるなどの対応がなされ、形式的には解決したことになります。しかし実際はそれだけで解決するケースはごく軽度のもので、内容が悪質になればなるほど解決に至るまでの過程は長く困難を極めます。実際に先生や保護者が間に入っても多数ある未解決のいじめ事案や、最悪の結末を迎えたケースなどがその事実を裏付けているといえるでしょう。
子ども社会のなかでこうして時々入ってくる大人の存在は、ジャングルに置き換えれば、調査で立ち寄る動物保護団体のようなもの≠ニいえるかもしれません。一度助けたからといって二度と襲われない保証はないのに、常に側で見守り続けてくれるわけではないからです。ジャングルでは動物を野生にかえすための必要な措置(離れ)ですが、いじめ対策を講じられたばかりの子どもにとっての「離れ」は不安要素にしかなりません。のちにその対策が報復という矛にすり替わり、いじめを受けた子の盾を切り裂く結果になることが十分考えられるからです。ならばまた同じように手を打てばいいと思う人もいるでしょう。しかしここで重要なのは、二度目の対策をとることは極めて難しくなるという点です。
いじめを受け報復された子にとって、二度目の大人の対策は恐怖と罪悪でしかなく、自ら被害を訴えるどころかその事実を隠すことに必死になる傾向があります。恐怖とはもちろん報復のことですが、罪悪は最初の対策によって生まれる新たな感情で、再び親にかけるであろう心労を罪だと捉えてしまう子どもの心理のことを指しています。
この2つの感情が強く働くことでつらい現状を表に出すことが困難になるため、たとえ大人が常に支えるスタンスをとっていても、本人からの訴えがなければ気づくことさえ出来ないかもしれません。ではどうすればよいのか?冒頭のジャングルに戻って考えてみると、意外にもシンプルな答えが浮かび上がってくるのではないでしょうか。
ジャングルで水を飲むには、危険なワニの沼へ行かなくてはなりません。もちろんワニのいない平和な沼もあり、またワニがいても無事に水を飲んで戻れることもあるかもしれませんが、もしも襲われてしまった場合、最初に考えるべき対処法は、当然ながら脱出させることだといえるでしょう。ジャングルから出てしまえば身の安全はすぐに守られ、また、外の世界には水を飲む方法がいくらでもあるからです。
ジャングルの動物たちと私たちの大きな違いは、選択肢が一つではないということです。しかしこうした選択を良く思わない人は決して少なくありません。
いじめが社会的な問題となった今でも、先生や保護者、ときには本人までもが、いじめを理由に登校しないことを後ろ向きに捉える傾向はまだまだ根強いといえます。当事者だけでなく周囲の大人や子どもたちも、「学校に行かないことは逃げること」というイメージが強いのかもしれませんが、それは大きな誤解といえます。
成長するために必要な我慢や根気といった精神力を育てるには、どんな試練にも立ち向かう勇気が必要ですが、それはあくまでも安全を担保された環境下で行われるべきことです。いじめなどの身体的、精神的な安全を脅かす状況を試練と呼ぶには、あまりにも賭け@v素が強すぎると言わざるを得ません。
いじめが社会的な問題となった背景には、繰り返される自死という悲劇があったからだといえるでしょう。いじめの歴史のなかで死という被害が存在しなければ、今のような大々的な問題提議がなされていたかどうかは残念ながら疑問です。
しかしこのことから汲み取れるのは、何があろうと命が失われるようなことだけは絶対にあってはならないということです。これに従えば、いじめに遭ったときにまずやるべきことは、本人を勇気づけることでもいじめっ子に謝罪させることでもなく、子どもを実質的に守ってやることだといえるでしょう。
そのなかでも学校に行かせないという選択は、確実に子どもを守ることができる最も有効な手段だといえるのではないでしょうか。 さらに付け加えるなら、苦しい闘いを経て自分を守り、教室以外の場所で学習する方法を見つけられた子どもは、逃げるどころか厳しい現実と真正面から向き合い、新しい道を前向きに歩き出しているといえるでしょう。
2.聴くことの意味、聴くだけの無意味
「つらいことがあったら誰かに話そう」
いじめ対策=相談というイメージが定着しているほど、いじめ被害者には不可欠な「話をする」というSOS行動ですが、それに対して多くの大人が行うのは聴くという行為です。
確かに溜め込んだストレスを発散させるのはとても大切なことで、心も体も排泄≠行わなければ、やがて心身は蝕まれていくでしょう。特に、話すことに消極的ないじめ被害者には、安心して胸の内を吐き出せる場は絶対に必要だといえるかもしれません。
しかし、さんざん話をさせた挙句に「つらかったらまた話してね」「様子をみよう」などと締め括られるのは、勇気をだして話をした子どもにとっては「何もできない」と断じられたようなもの。なぜなら子どもが一番求めているのは、ただ話を聞いてもらうことではなく、具体的な解決策だからです。
通学路で下を向かず、昇降口に吸い込まれる恐怖を感じず、教室の空気に押し潰されそうな苦しさを味わうことのない明日を取り戻す方法、それを「今すぐ」求めているのです。大人から見れば子どもにつらい心情を吐露させ、じっくりと状況を調査してから解決策を導き出そうとしているのは明白です。しかし子どもは待てないのです。待てないからこそ、どんなに親身になって相談にのっても、悲しい結末へと急いでしまうケースがあとを絶たないといえるでしょう。
このような子どもの心理は大人に置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。
たとえば、会社帰りに強盗に襲われて財布を盗られそうになった、という経験をした大人が警察に相談し「パトロールを強化します、また何かあったらすぐに通報してください」といわれても、翌日からまた同じ道を通らなければならないと考えたら、とりあえずは何か対策をとってほしいと要望するでしょう。解決した過去の記憶ならともかく、現在進行形のことをいくら周りに吐露しても、本人を取り巻く状況が何も変わらなければストレスの蓄積は止まりません。
このように、話を聴くことはとても重要ではありますが、それだけで子どもを救えるわけではありません。さらにいじめの相談をしていたのに亡くなってしまうケースでは、本人から話を聞いていたぶん、遺された人の後悔も強く深く刻まれてしまいます。
いじめ対策のメインは、聴くことではなく迅速に動くことです。
聴くことは、その子にとって最善の解決策をみつけるためのサプリメント(補助的なもの)だと認識したほうが良いかもしれません。
3.先生はしゃもじをもって大河を渡る
「教室」というボートに生徒たちを乗せて、先生は遥か遠くに見える岸辺を必死に目指します。そのボートはとても脆く、四方八方から押し寄せる波に何度も叩きつけられますが、そのたびに先生は一人で立て直し、岸に向かってボートを漕ぐのです。
しかしその手に持たされているのは、波を力強くかき分けられるオールではなく、手のひらに収まるほどの小さなしゃもじだけ。どんな荒波がこようと生徒が暴れてボートが揺らごうと、そのしゃもじで方向転換を図りながら、不安定なボートを進めていきます。
学級崩壊が起きたとき、その責任は誰にあるのか?といった議論は必ずといっていいほど保護者会で行われます。そこで厳しい追及を受けるのは担任を含む学校側です。
授業中に騒いで歩きまわり、先生のそばで黒板消しをたたいて白煙の中で笑う生徒。水槽に消しゴムを投げ落とし逃げ惑うめだかを覗き込んだかと思えば、机に乗って走りながら歌い始める。そんな光景に呆然としながらも丁寧な言葉で注意を促し、ずれた机を黙々と元に戻す先生の唇は、血がこぼれそうなほど押し潰されていた―。
これは実際にあった教室の風景ですが、こんな惨状を子どもから聞いた一部の保護者は、当然ながら担任教師へ申し入れを行い、円滑に授業を進めるために何らかの策を講じるよう求めました。
このケースでは、混乱の教室のなかで数件のいじめも発生しており、のちに心身ともに疲れ果てた学年主任と担任教師が、長期休養に追い込まれるという最悪の結果を招くこととなりました。
しかしその頃には、一部だった保護者が「一丸」となっており、学校への責任追及は止むことなく、今度は教師を休養に追いやった責任も上乗せして校長や副校長への糾弾へと変わっていったのです。
まるで昭和の株主総会のように激しい怒号が飛び交う緊急保護者会では、父親を伴って出席する家庭も多く厳しい口調で発言する父親に倣うように、次々と保護者達の不満が噴出していきました。後日わかったことですが、会の前日に学校側への非難を呼びかける旨のSNSが保護者間で回っており、そこで出来上がったチームワークが「学校悪」に終始する保護者会へと繋がったようです。
このような場外乱闘が続けられている間にも、生徒たちの暴走は続き、臨時講師や他学年の先生たちが交代で問題のクラスを訪れ、ひたすら制止を試みていました。
あくまでも冷静に、丁寧に、根気強く生徒と接する先生たち。決して怒ってはいけません、後ろに立たせるなどもってのほか、やる気がないなら帰れなどといったらそれこそ大問題になります。学級崩壊を招いたのは教育できない学校の責任なのですから、なに一つ非のない子どもを叱ることは断じて許されないのです。
傍若無人に振る舞う子どもと全ての責任を押し付ける保護者たち。学校はその極小の狭間で改善策を探って行かなければなりません。
こうして先生はガタガタのボートにバランスのとれない生徒たちを乗せて、深く険しい大河を渡っていきます。しゃもじという小さな権限だけを手に、容赦なく打ちつける大波に無言で抗いながら孤独な航路を越えて行くのです。
そんな最中でいじめ問題に直面する子どもの声は、激しく揺れるボートに遮られ、先導する先生の耳には届かないまま埋もれていきます。いじめ被害者の保護者は、「こんなに大事な問題をなぜ優先的に取り組まないのか」と苛立つこともあるでしょう。しかし、その「大事な問題」をそれぞれの親がいっぺんに主張すれば、解決すべき問題事項の一つにしかならないのが現状といえるかもしれません。
4.消えた足跡しか拾わない、いじめアンケート
決して途絶えることのない、いじめによる自殺。生前のアンケートでは何の問題もなかったはずが、生徒が亡くなったあとにポロポロとその事実が出てくるのはなぜでしょうか。
いじめが日常的に行われていると、いつしかそれは普通の光景となり、善悪の線引きもうやむやになっていきます。ところが、ある日突然「死」という非現実的な事実を突きつけられたことによって、鈍麻していた生徒たちの心に戸惑いや迷いが生じ、はじめて大変なことが起きていたのだと振り返ることができるのです。当たり前のようにあった教室での出来事が、気に留めることもなくなったクラスメイトの歪んだ表情が、普通ではなかったのだと認識することができるのです。
あとからわかったところで時間を戻せるわけでもなく、亡くなってしまった生徒の足跡を追うだけのアンケートには、ただただ無念の思いが溢れ、保護者の悲しみと憎しみを強く駆り立てます。
既存のいじめアンケートは教室で行われることも多く、書きづらいといった問題を訴える子も少なくありません。それは静かな教室で一斉に書き込むことで生まれる独特の問題点があるからだといえるでしょう。
たとえば、アンケートの質問に対していいえ≠ニ答えた場合、丸をつけるだけなのでシャラっという鉛筆の音だけが聞こえますが、はい≠フ場合は、その理由を答えるために文字を書くカリカリという音が響いてしまいます。
つまり、カリカリと聞こえた時点で問題を書き込んでいる生徒がいるという事が周知され、さらにその音は後ろめたいことを抱える加害生徒にとって、密告者を知らせる警告音にもなるのです。そこからネガティブな道筋を容易に想像できてしまう生徒たちは、書くこと自体をためらうようになります。そんな細かいことさえ気になるほど、本来子どもの神経は研ぎ澄まされているのかもしれません。
こうして回収されたアンケート用紙は、事実を塞いだ意味のない紙切れとなって「問題なし」という誤った結果を導き出してしまうのです。
いじめのアンケートを実施する目的は、いじめがあるのか否かを確かめ、教室という「故意の密室」のなかで何が起きているのかを把握することです。
それを知る有力な証人はクラスメイト全員であり、その一人ひとりがもつ情報を引き出すことは、ベストな対策を講じるために必要不可欠といえるでしょう。しかし自殺問題の前後の例からもわかるように、回答の有無が選べる「受け身型のアンケート」では集計結果の差が大きく問うこと≠ニ答えること≠ェ必ずしもイコールになっていないことは明らかです。
NO回答(該当なし)ありきの形式的なものなら既存のアンケートでも良いですが、より多くの情報をなるべく早期に得ようと思うなら、今のままでは到底不十分といわざるを得ません。
生徒たちにとって日常と化した教室での出来事を思い起こす作業は、パンドラの箱を開けるようなもの、それを自ら開いてもらうには相応の条件が必要です。秘密を抱える生徒ならなおさら、記入者が特定されるといった不安材料が僅かでもあれば、迷わずNO回答を選ぶでしょう。
子どもでも大人でも情報提供者にとって外せない条件は、自分の身の安全が守られることです。それをクリアできて初めて自発的な回答を望むことができ、ようやくいじめ対策のスタートラインに立つことが可能となるのです。
5.ポジショニングシートの提案1(いじめの有無に5W1Hは要らない)
いじめは風邪を引くこととよく似ています。
今まで普通に学校生活を送っていた子どもが、ある日突然ウィルスに侵され健全な心を折られてしまう。これは被害者にも加害者にもいえることで、底なしに自分を追い込んでしまったり、人を傷つけることに爽快感を覚えるなど、感情の向きに陰と陽の違いはあるものの、どちらも日常にはない精神状態に陥ることは共通しているといえるでしょう。
しかし風邪もいじめも早期に見つけ適切な処置を施せば、重症化を防ぐことができます。
既存のいじめアンケートでは、誰がいじめられているか、どんないじめをしているかなどの質問に対して「はい」と答えた場合にのみ、子どもたちが見聞きしたことを記入するスタイルになっていて、当然すべての質問をNO回答にすることもできます。
しかし「誰が誰にどんないじめを行っているか」という部分に焦点をあててしまうと、具体的な名前や内容を書くことをためらう子もNO回答にする可能性があり、結果いじめの存在を確認できないという重大な見落としが発生します。NO≠フ中には「ない」ではなく「書けない」という意味もあることを、アンケートから読み取ることはできないからです。
確かに被害を訴える者がいる場合、加害者と加害内容は必要になってきますが、そこに固執するあまり、完璧な情報を求めるあまり、一番大事な「いじめの有無」が掴めなくなる恐れがあるのです。
ポジショニングシートは、この「有無の発見」に特化したツールです。
このシートには加害者や被害者の名前どころか、いわゆる5W1H(Whenいつ、Whereどこで、Who誰が、What何を、Whyなぜ、Howどのように)を記入する箇所も一切ありません。記入するのは数字と色だけです。
5.ポジショニングシートの提案2(自分の立ち位置を知る)
ポジショニングシートの重要な役割として、「自分の立ち位置を知る」というものがあります。前述の学級崩壊した教室などでは、特にその位置がわかりづらくなるといった問題があります。なかには加害生徒本人までもが、自分の位置を把握できていなかった(いじめている認識がなかった)ということも少なくありません。無邪気ないたずらやただのふざけ≠ェ、誰かを傷つけているということに早く気づくためにも、自分のポジションを知ることはとても重要になるのです。
また、いじめというとどうしても被害者と加害者ばかりがクローズアップされがちですが、そのほかのクラスメイトも「間接者」として注視するべき存在だといえるでしょう。クラスの一人ひとりが自分の立ち位置を自覚することで、問題の全貌が明らかになったり、深刻度をあらためて知ることができたり、さらには集まった情報を繋ぎ合わせることで、根本的な解決に向かうヒントを生徒たち自らが導き出すことも期待できるからです。
ポジショニングシートはクラスの名簿を見ながら行い、まずは一人ひとりの名前を確認しながら5つの色に振り分ける作業から始めていきます。
・赤は中心になっていじめている人
・黄はいじめに加わっている人やヤジをいれる人
・青はいじめられている人
・緑はいじめを受けている人に同調・同情している人
・白は傍観している人
記入者から見た色を一人ひとりにあてはめ、正の字で集計しながら赤は1人、白は10人など、名簿を見ながらそれぞれに合う色に振り分けていきます。
ここで注意してほしいのは、漏れなく全員に色をつけるということです。赤、黄、青、緑、白の合計が自分を除くクラス全員の数であることを確認してください。ポジショニングシートにNO回答はありません。こうして全員の色分けが終わったら、最後に自分の色が何色かを書きます。じっくりと考えて、クラス内での自分は何色なのかを書きましょう。
シートを記入する際に参照する名簿は、一人一枚ずつ配布するようにし、その順番も出席番号ではなく順不同につくり変え、あらかじめ記入者の名前だけ抜いたものを配布するようにします。
たとえば、無作為に並べた氏名が「吉本・佐藤・山田・鈴木」という順番なら、佐藤さん≠ノ配る名簿は本人の名前を抜いた「吉本・山田・鈴木」となったものを配布します。
これは、バラバラに並ぶ名簿のなかに「無い名前=記入者」を一瞬で見分けることができないことを利用し、万が一あとから回収したシートを見られても、記入者を特定しづらくする効果と、自分の名前を書くことで生まれる重圧感を軽減させるための措置です。また、初めから自分の名前がないことで、記入者自身は逆に自分用の名簿であることを認識できるといった利点もあります。名簿には同姓の生徒に対して「佐藤(太)」「佐藤(広)」といった記載はせず、なるべく目印となるようなものは排除しフルネームで「佐藤太郎」「佐藤広子」と記します。(※記入者名をバーコード式にできたらなお良い)
全員のポジショニングシートを回収したら、クラス集計に入ります。
色別に合計し平均値をだしていきます。赤は○人、黄色は□人、青は△人、緑は☆人、白は◇人と、最終的な数字を出しましょう。このとき、記入者が書いた「自分の色」は別に集計しておきます。
最初に注目すべきは赤(加害者)と青(被害者)です。赤が0でなければ必然的に青にも数字が入っていることになり、その逆もまたしかりといえます。赤と青に0以上の数字が確認できたら、その時点で少なくともクラスでは「いじめがある」と認識していることがわかります。
次に黄色と緑ですが、黄色は加害者側、緑は被害者側といった真逆のイメージがありますが、実はこの2つは非常によく似た性質を持っています。どちらも中心ではなく(赤でも青でもない)、離れているわけでもない(白(傍観者)でもない)。
2つに共通することは、引きずられやすく偏りがちな傾向があるということです。問題の中心になることは避けたくても、蚊帳の外は不安といった気持ちが潜在的に強い子どもは、黄色や緑になりやすいかもしれません。
白は独立していて冷静、それでいてコミュニケーションはうまくとることができるので、孤立することもなく常に対岸のポジションを保持しています。
白はどの色とでも当たり障りなく関われるカメレオンのような性質で、5色のなかで最も全体の状況を把握することができる色だといえるかもしれません。
そして最後に確認するのは「自分の色」です。
恐らくこの項目には、緑と白の占める割合が高くなるでしょう。もしこのなかで、赤・黄色・青だと自己申告している記入者がいたとすれば、加害・被害の認識をしている(良からぬ状況だと判断できている)ということになるので、極めて早期の解決が望めるかもしれません。
「自分の色」はたいていの場合、当事者でもなく悪者でもないポジションを据えたいという心理(普通でいたい)が働くため、無難な色(緑や白)を書き込むことが多くなりその信用度が問われるところですが、この項目に求めることは「事実」ではありません。
そもそもポジショニングシートの目的は、より多くの情報を早期に引き出すことと、自分の位置を自覚させることにありますが、その位置づけを行うのは自分ではなくあくまでも他者(クラスメイト)です。それぞれがさまざまな考えを巡らせて書いた自分の色が無難色(緑や白)だった場合、信頼性は無いに等しいといえるでしょう。
「自分の色」をあえて書かせる理由は、自己申告(赤・青・黄色)が期待できることもありますが、たとえ虚偽の申告(緑や白)であっても書いてほしい、もうひとつの重要な意味があるのです。
自分を除くすべての色分けが終わったあと、記入者はクラス内にある問題の輪郭を漠然とでも掴めるようになります。
それは今まで「日常」だったことや、遊んでいるだけだと解釈していたことが、色や数字によって鮮明になることで、全体を冷静に見渡すことができるようになるからです。
そうして客観的な目線を持てたところで、このクラスのなかで自分はどこにいるのか?といった疑問を投げかけられると、麻痺していた感覚や判断力が前面に表れることが期待でき、これまで向き合うことのなかった「自分」との対峙、さらには自分がもともと持っていたはずの理想と現実のギャップを目の当たりにし、多少なりとも葛藤が生まれることが考えられます。
その結果、たとえば本来黄色である者が緑や白といった無難な色を書き込んでも、それは至って自然な反応といえ、調査をするうえではむしろ歓迎的な回答ともいえるのです。
なぜなら、虚偽の色を書き込んだ生徒ほど自分が何色なのかを直視できている可能性が高く、それは同時に降ろせない荷物≠抱えた生徒が、唯一吐き出すことができた真実ともいえるからです。
この項目で最も重要なのは、「自分と向き合い葛藤する」といったプロセスそのものなのです。これがのちに問題の解決にどう繋がっていくかは未知数ですが、これまでの思考回路を一度クリアにし振り返らせることで、少なくとも何らかの変化が起きることは期待できるのではないでしょうか。
シートの集計結果を「他者の色」と「自分の色」とでくらべてみると、まるでコインの裏と表のように全く違った絵柄がみえてくるかもしれません。
このように、いじめの調査をより効果的に行うには、見たもの聞いたものといった「外側を思い起こさせる作業」だけでなく、一人ひとりが持つ善悪などの価値観を引き出し、現実と照らし合わせる「内側を掘り下げる作業」も必要になってくるのです。
6.ポジショニングシートの提案3(見えない敵)
色分けによって見えてくるクラスの傾向は「空気」そのものであり、教室を流れるその空気こそが問題を表面化することを困難にし、換気のできない密室をつくっている原因といっても過言ではありません。
風通しの悪い部屋は、物の配置や工夫によって変えることができます。
ポジショニングシートによって浮き彫りになった色もまた、その位置やバランスをあらためることで、空気の流れを変えることができるかもしれません。そのためには青や赤の解消だけではなく、ほかの3色へのアプローチやケアも欠かすことのできない課題だといえるでしょう。
今は白の子が、放置すれば赤になることもあり、黄色と緑の子が赤と青の関係になることも考えられます。こうした負のループに陥らないためにも、いま自分がいる位置をしっかりと確認させること、そしてあらためて自分自身と向き合い考えさせることがとても重要になるのです。 好奇心が強いがゆえにうつろいやすい子どもの心は、良くも悪くも常に同じ色でいるとは限りません。いじめを防止するためには、問題の有無にかかわらず定期的に調査を行い、微妙な変化を見逃さないよう注意深く見守っていく必要があるといえるでしょう。
おわりに
娘のいじめが始まったきっかけは、もともといじめを受けていたクラスメイトを庇ったことでした。しばらくして学校に行きたくないと訴える娘に、私は「あなたは何も悪くないのだから堂々としていなさい」と励ましながら毎朝学校へと送り出し、裏では先生とのやり取りを続けていました。
しかし、集団となった加害者の子たちに「普通」の注意をしても何の効果もなく、反省どころか逆にエスカレートするばかりで、ときにはケガをさせられることもあったほど。先生には指導する義務はあっても、叱る権限は持たされていないのが現状です。いくら保護者から相談を受けても、できることには限界があったのだろうと思いました。
娘の体調が悪化するまで、私は「悪い方が処罰されるべきで、娘が退くことはおかしい」という考え方しかできませんでした。だからこそ学校に行かせることに執着し、縮んでいく娘の背中を押し続け、その結果、入院というつらい経験をさせることになってしまったのです。
娘の精神状態がどれほど悪化していたかを知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになりましたが、それでもどこかで「こんなことになったのはいじめ加害者のせい、止められなかった学校のせい」という気持ちを消すことができないまま病院に通う日が続きました。
そんなとき、同じ病棟に入院していた子の母親の話を聞きました。その子は自傷行為のある中学3年生で、いまだ加療が必要な状態にもかかわらず母親は「受験があるから退院させてほしい」と医師に懇願したといいます。受験よりも子どもの命の方が大事でしょうと、なかば呆れたような気持ちになった私がいましたが、そこでふと、もしかしたら自分も同じだったのではないかと思い始めたのです。
いじめが始まってから私が常に思っていたことは「娘に非はない」ということでした。悪くないのだから逃げも隠れもしないし、いじめ加害者は深く反省して、平穏な学校生活を娘に返すことが当然の結末だと信じて疑いませんでした。良い言い方をすれば、それは「正義」と呼ばれるものですが、そこにこだわるあまり娘を追い詰めてしまった私の判断は、ただのエゴでしかなかったのです。
結局、受験を理由に退院させようとした母親と、正義を理由に登校させていた私は、何ひとつ変わらなかったのだとようやく気づくことができました。
猛スピードで車が走ってくるのが見えているのに、横断歩道にいるのだからと動かないままでは、事故を避けることはできません。何が正しくて何が悪いのかを主張することは間違いではありませんが、危険な場所と知りながら、いつになるかもわからない「解決」を期待して子どもを留まらせることは誤りです。
優先すべきは「ワニの沼」で動けなくなったわが子を一刻も早く救出することです。安全な場所へ連れて行き「もう大丈夫だよ」と安心させてやることです。学校環境を変えることはできなくても、そんな親の判断は誰にも阻むことはできません。いじめが収まらないから、学校の対応が悪いからと問題の解決を外側に求めてばかりいては、子どもが苦しむ時間は終わりません。私自身そんな考えに囚われて娘に強いストレスを与え続けていたことに気付いたときは、とても大きなショックを受けました。
どんなに激しいいじめがあっても、それを学校側が止めることができなくても、私の判断ひとつですぐに、娘の苦痛を取り除くことはできたのですから。
当時の娘にとって母親である私の「色」は、決して良い色ではなかったでしょう。
いじめが起きると「普通」の学校生活は一変し、本人はもちろん家族もさまざまな問題にぶつかります。そこでもし子どもが登校しなくなれば、勉強の遅れや進学の問題、友人を含む社会とのつながりなど、心配になることはたくさんでてくるでしょう。
しかし、どんなに先のことを考えても今をおざなりにすれば、わが子のためにと考えていたその「先」が、永遠にやってこない可能性もあるのです。
勉強よりも正義よりも未来よりも大切なことは、子どもが健やかでいてくれることです。もしも同じような状況で苦しんでいる保護者の方がいるのなら、どうかあなた自身も立ち止まって「自分の色」を考えてみてください。
子どもにとってのあなたの色が、一番やさしい色でありますように。